1政治llill度と政WL1文化
分断糠|玉|のlI1llIⅡtに際して導入された政治Ilill度は、その述11)をilillうことに なった支配エリートの非氏后ii的な`'1|i格にもかかわらず、それなりに比主的な 装いを凝らしたものであった。主椛イ11民、杵jUu選挙にもとづく単院Ililll玉|会の llM設、三樅分立、人統価の|玉|会による避/|」,などを規定した1948年懸法は、ア メリカ型の人統価IliI1とイギリス型の議院内|#lllillの折衷形態であったとはいえ、
Tlj民社会の{IIllからの政策形成への多極多様な人ノノを少なくとも制度i「Iiでは保 証していた。つまり、それは「'五'1」LljEii樅」と「議会主義」をJiLjliIl1とする政治 的多元主義のIlill度的要件を一応は雛えていたのである。
こうした多元主義「Iりな政治Ilill度の導入は、38度線以南の地にあって、その 以北に形成されようとしていた社会主義体Iillに対抗しつつ、経済Ilill度におけ るTlT場経済と政ifiIlill度における「lXi主三iミ義」とを定着させようとした米111政 の意図を反映したものであった(''1[1989])。しかし、改めて述べるまでも なく、政治Ilill度自体がいかに繊辮に柵成されようとも、それのみではその制 度に込められたlIu念や|=|il<」の実りilを保証するものではない(Lee[l9751 Almond&Powell[1966])。そもそもTl丁民i'''1:命や)寵業r11i命の所産としての多 元主義的な政治Ilill度の機能は、近代産業社会の榊造分化に対応して生み|IJIさ れる政治文化のH1としての「市民文化」の成熟をiiii提とするものであるとさ れている。G、アーモンドがそうした「市民文化」を、「アングロ・サクソン 型の政治文化」に求めたことはよくkl'られているが、その論mllは災・米の既 存の体制の安定を「民主主義」の安定として読み替える、一種の体IIil]擁護論 にほかならず(Almond&Verba[1963])、体Ilillの論]H11を越えた「市民文化」
の規定が新たに模索される必要があろう(Jessop[1974])。ここでは、さし
82節l篇軸|]《|の]i業化と政WLi体IIillの展|Ⅲ|
あたって、この「Tlj氏文化」の」,囎礎的な指)|W(を佃|人の'二Iflkil0な政沿参加と集 団形成という点に求めておくが、雄|王|当時のjMtl玉|の政治文化がそうした「市 此文化」とⅡ]入れないものであったことは|リ|らかである。つまl)、轆国に移 植された政1Mり氏Ei【?iミ義のIIill度はこれを支える政治文化の|iii提を欠いていた
といわねばならない。
もちろん、解放illl:後の林|玉|において「市1M<|:会」の活性化とおぼしきりil象 がみられなかったわけではない。|」本の柚Lu也文1mの解体が、「Tlj腿社会の 急膨張」(1M[1989])と呼ばれる政治・社会集団の急成長と、新|玉|家建設に
|(11けた民衆述11リノの劇「I<ノなi1?』腸をもたらしたことはよく知られている。しかし、
I1W1放il11:後にみられた大衆迎勅のiilWl曵化は、それまで政治iiIMi)1の枠から排除さ れていたLL衆が新たな政iiL1社会の地平に突吻'1として解き放たれたことによっ て生じた-秘の「社会「l<ノリリI員」のプロセス(Deutsch[]961]、Huntington [1968])を示すものであって、多兀主義的な政if1Ilill度が想定する政治文化の 成長とは位|11を異にしていた。しかも、そうした膨娠した「ilThlj社会」も、
分|折勢力と統一勢ノノとの対11↑を決定(19にした48イ|えのlli狐選挙を経て、朝#剛 イトに糸る過概で急速に萎縮し、分|枡・冷lMlt榊造の定杵化を媒介とした「家父 長的政治文化」がiV現することになる。
権威主義「l<]な階川i関係、文INI[1判と被文配者・の利捕の1%柳(19一致、支配料、
身による道徳(I<」Iilli(111〔の体Uilを特徴とする(#H|」[1988])この「家父踵的(も しくは儒教('り)政WLi文化」は、jl(iド'五|では、|Til本|司姓料を'''心とする「'''1''1 (|司族)結合」、nljIリ|;・常hL・lothbなどの身分「l<)差Bll、地主・小作の経済「I<)階 用関係など(李lMlilll[1973])、季jlリ1101以来の農村の椛威主義的秩序に根差し、
李承llju体IlilIの|ノリ実もそうした政if)文化を基底とする、いわば「家父長的椛威 主義体Ilil1」としての性格を色濃く帯びていたといわねばならない(軸レバ浩 [198()])。そこでは多元主義il<]な政治Ilill度が想定するIllil人の|生1発iI9な政治参 加はきわめて低いレベルで停柵;し、政党やjNl今などの「近代的」な政治装置 も、」えからの椛威主義的な、11貝の手段としてあったに過ぎない。そうしたIlil]
度と実態の乖離は、50`|i代初めに成立する労Ilill法IIiIlの「JMA主義('り」かつ
「民主('り」を性格と、現実の労使|兇|係やiliM、辿勅の実態との落差にもよく現 れている(法政大比11卿「[1988])。政治Ilill度の多元ゴミ義(1りな性格は、現爽に
第4]iii韓国の政WL1文化と「維新体Ilill」83 は、’'1名望家を主体として分IIil(的にilllI織された保守1I1f党と、半7k晩勢ノノ(日 111党勢力)との非対||((的な競合関係という狭い枠組で)fうじて機能していた に過ぎないので、ある。
jlリ|鮮戦争を経て成立するllililElの政沿体IIillは、こうして多元Zii義的な政治Ili'|
度と、農村の共|司体「l<ノな秩序を基底とする伝統的な政if}文化とのiHlIWを特徴 とし、60fI弍代の朴政桃の政if1体Ili']もそうしたlMIIIlWiをおおむね継承していたと いえる。
すなわち、61年以降のili政1、鬘で収)>Zする節3共和llil恋法も、人統{ilI権限や 安今保障||;'I度の強大さというノノパで椛威カニ義「I<」を政治文Ill1UのIlill度1mへの投影が みられるとはいえ、広範'111のliiIl政WIi盃椛をもつ議会や大統価1111:選fli'1をjInして、
TIiljIli社会の(!!||の支持や要求が政治jMilに投入されるIlill度i1り|Ⅱ|賂は開かれてい た。つまり、政治llill皮の多〕C1且義「l<ノな性格は、第3共jlilll玉|期の朴政椎1<にお いてもそれなりにルlli侍されていたといえる。
一方、農村部を'''心とした政沿文化の伝統「1<」性格もなお|}Wliであった。も ちろん、この頃では、農地故jII1iやjliⅡ鮮)|蛸卜などに伴う}&村社会の下冊ljI附造の 変雰があり、iili述の「|i71族紡什」、「身分(1<」差Ⅱ'1」、「経済的ルャルイ関係」を基盤 とする農村の椛威主義的秩n屋;は少なからずlillなわれていた(f1Ml甲[1973])。
さらに、60年の4Ⅱi''11:命に象徴されるように、都Tli部では学:ノliや知識人を}11 い丁とするTljⅨ(1<ノな政治文化が芽吹き、「ノノ村11州I」といわれたように、政 WLi文化のmでの、伝統〃とい近代〃の二IMiWH造が「投票行、))」などにリ11れは じめる。しかし、にもかかわらず、この11籾01の農村では、|両1族結合や、契 (jliHlM二IF識)・プマシ(労ノノの交換)などの社会(1<)共|可を基盤に共|司体的秩序が 保たれていた_上に、識字率も低〈(58年の調査で42%)、新I!l・ラジオなどメ ディアを通した外部lll:界のliIijIiMMl製家たちによってほぼ狐,'iされるといっ た状態が続いていた。さらに政泊怠搬のTliでも、「彼ら(農L1J)は宮のする ことに対して批判することをlIi1lらない。12「がすべてのことをよく把掘し、と り行うであろうから、命ずるままにすればよい、という考えが支配(1<ノ」であ I)(李繭111[1973])、そうした農村の政治文化がいまだ幼弱な都市の政治文 化を包lJllしていたといえる。しかも、耶政期に朴11:煕が示した軍農=i皇義的ス タンスは、李政権末川の農村の荒}ヅビによってほころびかけていた椛威主義的
84節lliM輔|正|のⅢ業化と政治体Ilillの展11ト|
な」i蝋の建てⅡI[しに少なからず役立っていた。こうして、第3共和国j0lの朴 政椎も、政治Ili'1度の、iでの多元jミ義と、政if)文化の1「Iiでの伝統「1り性格という、
政ifiIlill度と政治文化のMWをiii雌とする椛威三i2義体Ilillであったという点では 李承晩政権と何ら変わるところはなかったといえる(張[1986]、李効W [1985])。
そもそも、政治支配の権威主義的な性格は、政治Ilill度のレベルでの椛威主 義的糺ii成を必ずしもiiii提とするものではない。椛威主義的支iliUは、大衆レベ ルの椛威主義「1りな政治文化をiii脳とし、そうした前提が雌(采されているかぎ ')、「民主的」な政治Ili'I度の~「でも、あるいはむしろ、j主的」な「形式」
の1,.でこそかえって権威主義的な支配が威ノJを抑うというのは、臓史の二'1実 が示す通りである。
ところが、「ルlli新体IIill」の成立は、政治支配の内実としての権力構造と多 元主義的な政治Ilill度の1MWが政ifl危機としてMM化し、椛威主義支配の「民 主的」外皮が、統ifi者によって柵Iliとして意誠されたことに発している。従 来の1II:究が折柵しているように、そこに当時の|正|際情勢の激変や、601|i代の 社会経済レベルの変動が作11Iしていたことはlリ|らかである。だが、国際IlM係 の変化や社会変動を「維新体Ilill」の成立へと媒介したのは、この'1約91の政沿 文化の変容にjlil(差す政if)過程にliljl有のノノ学であり、その点があらためて解lリ’
されなければならないであろう。ここでは、そうした観点に立って、「政粭 文化」、「政治hll度」、「政治体Ili'1(もしくは椎ノ」柵造)」の三満のノ'11万関係を Il1心に「維新体Ilill」成立の]ソ)態とその特質を探ることにする。
2「維新体Ilill」の成立
「ルlli新体IliI1」の成立は、ラテンアメリカにおける「官僚的椛威主義体IlilI」
についてのオドンネルのモデル(O'Donnell[1973])がそうであるように、
政治と経済のなにがしかの|人|采論的連'1Mを通して税'リ|されることが少なくな い(又[1987])。この場合、しいていえば、第3共和|正1-1,.の朴政樅がjijlil玉|経 済の111界経済へのリンケージに対応する政治体IIillであるとすれば、「ルlli新体 IIil1」は「重化学工業化」、いいかえれば、jl(i躯|維済のIMLシステムにおける
節4章柿lIilの政治文化と「維新体Ilill」85 地位の上外迎勅に対応する政iiLi的枠iMlであったと言うことが可能であり、そ
うした規定|:|体は(Tlら誤りを含むものではない。しかし、よく指摘されるこ とであるが、このjlili〔の解釈は征々にして「ルlli新体Ili'1」という体Ili'1迎営方式の 転換にまつわる政治過程にNil行の勅lklを兄淵としがちである。
そもそも、70年代初めの〕|(jltl正|における政洲|:会(10危機が、オドンネルなど の想定するように、既存の文ハロ体Ilillの存続そのものを脅かすほどに深刻なも のであったのかどうかが改めて吟'1ノ|くされなければならない。70イ'三代初めの鰊 uilが一定のlMIliにllmiし、それが朴政樅によって危機として受けとめられた であろうことに疑う余地はない。その場合、危機の板庇にあったのが経済危 機であったことも一般に認められている。たしかに、当時のIIL界経済を襲っ た経済不i兄は、ベトナム特需や1彫りM1の|止界経済のi隆二[:業製,liiI,需要に支えら れた蝉国の輸出指lhl経済を111:盤し、国際収支の悪化、インフレーションの昂 進、経済活仙の枕1$という形で経済危機を1,jlliiイli化させていた(第3篇第2章 参11(1)。一方、こうした経済危機が60年代の11if業化とともに急速にjlIi大した 労働稀や都11J貧民の集IJI行!!))をはじめとする社会的な危機を誘発したことも
よく知られている(金ヨンスン[1988]、郡・文[1990])。
しかし、こうした絲済不振や「Ji胴瓜衆」の動lfIは、外|玉|人投資企業の労 '111連動に対するjliMIlill立法や「8.311柵」などの体Ilill迎営の椛威主義化を部 分的に促したとはいえ、それ'皇1体が体Ilill遮徴の全Uli的な転換を促す要因と なったとは考えにくい。労Ilill迎勤は、依然として$|I織的にも政治的にも初歩 的な段階に''2まっていたし、それ〔1体では「社会的な危機」の要因とはなっ ても体Ilillを拙')動かすほどの「政治的な危機」を誘発するまでには至ってい なかった(鮴朴I震[1986]、11M[1989])。経済(1<」にも、成」量率の鈍化は否めな いものの、jliiiillh成長率の堅洲さ(71イIi22.6%、72年33.5%)に示されるように、
雇川の増大や全般「1<」を所得拡大を伴う高度成艮の難訓が肋|れていたわけでは ない。
だが、そうした「雑ハイ民衆」の11i)lIfilが60年代の社会榊造の変化に伴う政治 文化の一定の変容を物語るものであったことは否簸しがたい。この60年代に 輪'五|社会の経験した都TIj化と「人|」のプロレタリア化」(松-1,[1965])はき わめて急激であった。農村から都Tl丁への人'二|移皿))は60イli代前半には年平均約